ほぼ同世代の二人
吉田松陰は1830年生まれ、福沢諭吉は1835年生まれ。ほぼ同世代です。松陰は1859年に29歳で処刑されましたが、福沢はその後、明治の日本で大きな影響力を持ち続けました。
二人は直接会った記録がありません。しかし、同じ問い——西洋の脅威にどう向き合い、どうやって日本の独立を守るか——に、まったく違う方法で答えようとした点で、好対照をなしています。
学問観の違い
まず、学問をどう捉えたかが違います。
松陰にとって、学問はどう生きるかを学ぶものでした。「学は人たる所以を学ぶなり」(『松下村塾記』)。志を立て、誠を尽くし、実行すること。学びは生き方と一体でした。
福沢は、もっと実利的です。『学問のすゝめ』で、役に立たない古典の暗記を戒め、実際の役に立つ実学を勧めました。西洋の物理・経済・法律を学び、身を立て、独立すること。学問は、独立の手段として捉えられています。
- 松陰:学問=生き方・志
- 福沢:学問=実学・独立の手段
どちらが正しいというものではありません。松陰は内面の志を、福沢は社会の仕組みを、それぞれ重んじました。
攘夷観の違い
外国への向き合い方も対照的です。
松陰は、国防としての攘夷を唱えました。まず外国の実情を知り、力をつけてから対抗する。行動で国を守ろうとした兵学者でした。
福沢は、攘夷そのものに反対しました。西洋文明を学び、開国して交易する。文明を摂取することで国を強くするという発想です。攘夷の志士たちの暴力的な行動にも、福沢は批判的でした。
方法の違い――行動か、著述か
最も大きな違いは、手段です。
松陰は、自ら行動する志士でした。密航を企て、条約に抗議し、門下生を育て、最後は命を落とします。草莽崛起——在野の人が立ち上がることを説きました。
福沢は、行動ではなく教育と著述を選びました。慶應義塾を開いて人材を育て、『学問のすゝめ』などの書物で世論を動かしました。直接政治に関わることはせず、独立した言論人として生きました。
通じ合う点
違いばかりではありません。二人に共通するものもあります。
- 身分にとらわれない:松陰は松下村塾に身分を問わず受け入れ、福沢は「天は人の上に人を造らず」と書いた
- 日本の独立を願った:方法は違えど、目的は同じ
- 学問の力を信じた:学ぶことが人と国を変えると考えた
松陰が29歳で倒れた後、志士たちが政治を動かし、福沢が教育と世論を支える。二人は、明治という時代を、別々の役割で形づくったのです。
