山鹿素行とは
山鹿素行(やまがそこう、1622–1685)は、江戸時代前期の学者・兵法家です。もとは朱子学を学びましたが、やがて朱子学を批判し、孔子・孟子の原点に返る「古学」を唱えました。
また、武士のあるべき姿を論じた「士道」の思想家としても知られます。主著には兵法書『武教全書』や、士道を論じた著作があります。のちの「武士道」を語るうえでも、外せない人物です。
松陰の家と山鹿流
松陰の家は、山鹿流兵学の師範の家でした。幼名を名乗っていた頃から、松陰はこの兵法を学び、11歳で藩主の前で講義をするほどの秀才になります。松陰の「本職」は、思想家ではなく兵学者でした。国防こそ、生まれついての自分の仕事だったのです。
松陰は1851年、肥後藩の宮部鼎蔵とともに、山鹿素水などからも兵学を学んでいます。山鹿流は、松陰にとって家業であり、同時に思想の土台でもありました。
素行の士道と、松陰の士規
素行が説いた「士道」は、身分としての武士ではなく、生き方としての武士を問うものでした。武士は何のために存在し、どう振る舞うべきか。その答えを、素行は経典の原点に返って考えました。
この精神は、松陰が松下村塾で定めた『士規七則』に通じます。士として貴ぶべきは才ではなく徳、学識ではなく行動。武士であることより、どう生きるかを重んじる姿勢は、素行の士道と響き合っています。
古学――原点に返って自分で考える
素行の古学は、朱子学の解釈をそのまま受け入れず、原点のテキストに返って自分で考えるという姿勢をとります。この姿勢は、松陰の学び方そのものです。
経書を読むの第一義は、聖賢に阿らぬこと要なり。 — 『講孟余話』
「権威にこびへつらわず、自分で道をきわめる」。松陰が獄中で『孟子』を読み込み、先人の解釈にも自分で判断を下したのは、素行以来の古学の精神を受け継いだものと見ることができます。
兵法から尊王へ
素行の学問は、兵法と士道、そして日本の国柄を考える学問でした。松陰はこの系譜の上に、水戸学や国学、そして『孟子』や陽明学を重ね、尊王攘夷という政治的な志へと結びつけていきます。
山鹿流の兵学は、単なる戦術ではありませんでした。国を守るとはどういうことかを考える枠組みとして、松陰の思想全体を支えていたのです。
