二人は「兄弟弟子」だった
松陰と坂本龍馬(1835–1867)は、直接の交流があったわけではありません。しかし、二人には共通点があります。どちらも佐久間象山の門下生だったのです。
松陰は1850年頃、龍馬は1854年頃に象山に入門しました。松陰が兄弟子にあたります。ただし時期が重ならず、象山が松陰の密航事件に連座して蟄居したため、龍馬が学んだ期間は短いものでした。
龍馬はのちに勝海舟の門下に入りますが、勝海舟も象山の門下でした。象山という師を通じて、松陰と龍馬はゆるやかにつながっていたのです。
互いを知っていたか
龍馬は、松陰のことを知っていた可能性が高いとされます。長州の久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎らと交流する中で、松下村塾や松陰の話は当然の話題だったはずです。
逆に、松陰が龍馬を知っていた可能性は低いと考えられます。松陰が処刑された1859年、龍馬はまだ無名の土佐藩士でした。時代の歯車が、二人をすれ違わせたのです。
久坂玄瑞が運んだ「草莽崛起」
二人をつないだ決定的なできごとが、1862年に起こります。長州の久坂玄瑞(松陰の門下生)が、萩を訪れた龍馬にこう語りかけました。
「藩の枠にとらわれず、草莽の志士が立ち上がって攘夷の挙に出るほかない」。
これは、松陰が遺した草莽崛起——在野の人こそが時代を動かすという思想でした。この言葉に衝撃を受けた龍馬は、約2か月後に土佐藩を脱藩します。
今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。 — 北山安世宛書簡
松陰の思想が、門下生を通じて龍馬に届き、龍馬の行動を動かした。直接会うことのなかった二人が、ここでつながりました。
松陰が描けなかったものを、龍馬が成した
松陰は、幕府も藩も頼りにならないと嘆き、在野の志士に望みを託しました。しかし松陰自身は、藩を動かすことも同志をまとめることもできず、29歳で処刑されます。
その志の先を生きたのが、龍馬でした。脱藩後、龍馬は薩長同盟を成立させ、大政奉還を実現します。松陰が果たせなかった「時代を動かす」ことを、別の藩の、在野の一人が成し遂げたのです。
龍馬もまた、1867年に京都で暗殺され、明治を見ることはできませんでした。二人は、同じように時代に命を削られました。
