福沢諭吉は、なんのための学問かを徹底して考えた人でした。彼が重んじたのは、頭の中に知識をため込むことではなく、実際に使える学問です。これを「実学」と呼びます。
虚学と実学
福沢は、当時の学問のあり方を鋭く批判しました。難しげな字を知り、古い文を読み解き、和歌や詩を楽しむ。それ自体は悪くありませんが、福沢はこうした「実のない文学」を、世上の役に立たない学問=虚学と見ました。
学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。
では、実学とは何か。福沢が挙げるのは次のような学問です。
- 数・理・化学:物事を測り、考え、確かめる基礎
- 地理・歴史:世界がどうなっているかを知る
- 経済・法律:暮らしと社会のしくみを動かす
- 物理・機械:ものを作り、使う力
「活用なき学問は無学に等し」
福沢の実学観を一文で表すのが、この言葉です。
学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。
学んだことを、実際の場面で使う。使えなければ、学んでいないのと同じ。ここには、知識そのものより、知識を働かせる力を重んじる姿勢があります。
『学問のすゝめ』には、多年学んでも一向に活用できない学者の例が、いささか手厳しく描かれます。知識をためるだけでは、人の役には立たないよ、というわけです。
なぜ実学が必要だったのか
福沢の時代、西洋の国々は産業と軍事の力で世界へ進出していました。日本が植民地化されずに独立を保つには、実際の役に立つ学問で国を強くするしかない。実学のすすめは、机上の教育論ではなく、生き残るための構えでした。
海外を見てきた福沢は、『西洋事情』で、病院・銀行・郵便・議会・学校など、西洋社会を支えるしくみを紹介しました。実学とは、こうした社会の土台を作る学問でもありました。
「使える」をどう考えるか
実学というと、すぐ金になる学問、と短絡されがちです。しかし福沢の基準はもう少し広い。
- 身を立てる(自分の生活を支える)
- 世の中を動かす(社会のしくみを良くする)
- 判断を確かにする(人の話に流されず、自分で考える)
この三つに資するなら、それは実学です。逆に、どれほど立派でも、役に立てられない知識は福沢の目には実学ではありません。
現代の学びに引きつけると
- 資格や試験のためだけでなく、「これを何に使えるか」を常に問う
- 読んで終わりにせず、一度でも実践や仕事で使ってみる
- 教養も、考える力として使えば実学になる
