福沢諭吉は『学問のすゝめ』初編の冒頭で、こう書きました。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
人は生まれながらにして、貴賤(きせん)・貧富の別はない。ところが現実には、賢い人と愚かな人、貧しい人と豊かな人がいる。この違いはどこから来るのか。福沢の答えは「学ぶか学ばないか」でした。
現実の不平等をどう説明したか
福沢は、現実に差があることを否定しません。むしろ正面から認めます。
されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。
生まれつきの身分ではなく、その後の学びが人を分ける。これは、生まれた家格で一生が決まる封建社会への、まっすぐな反論でした。
平等とは「権利の平等」
では、福沢の言う平等とは何か。二編「人は同等なること」で、彼はその意味を丁寧に説明します。
平等は、財産や力や、見た目の平等ではありません。福沢は「権理(権利)道義の等しき」を言っているのだと述べます。
つまり、次のようなものがすべての人に等しく認められる、ということです。
- 生命:身分の高い人の命も、低い人の命も、同じく大切
- 財産:富む人の財産も、貧しい人のわずかな財産も、同じ重さで守られるべき
- 名誉:人はみな、自尊心と名誉を持っている
身分社会では、下の者は上の者に道を譲り、家来のようにふるまわされた。これは、人間の平等という大原則に反する——福沢はそう批判しました。
平等と学問の関係
福沢の平等論は、努力を否定しません。むしろ、平等な権利があるからこそ、学んで身を立てる競争が意味を持つ、という考え方です。
- 平等だから、学べば誰でも上に行ける
- 平等だから、無学のままだと貧しくなる
- ただし、それは権利の平等があってこその話
「平等だと言いながら、実際には差があるのはおかしい」と福沢は言っているのではありません。出発点の権利は平等で、その先は学びと努力の結果だと言っているのです。
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福沢は、身分だけでなく男女の関係にも、同じ視点を持ち込みました。「そもそも世に生まれたる者は、男も人なり女も人なり」として、女性を劣った存在と見る考えを批判し、女性の教育を重んじました。
ただし、福沢の女性観にも、当時の常識にとどまった部分はあります。その点は別記事で、公平に見ていきます。
現代に引きつけると
- 平等とは「みんな同じになること」ではなく、スタートラインの権利が同じであること
- 差があること自体はおかしくない。しかし、生まれで決めるのはおかしい
- 学び直しの意味は、この「権利の平等」の上でこそ生きる
