福沢諭吉は、身分の平等だけでなく、男女の間の不平等にも鋭い視線を向けました。晩年には『女大学評論』『新女大学』を著し、当時の女性観を根本から問い直しています。
批判の的は「女大学」
福沢が批判したのは、江戸時代に広く読まれた『女大学(おんなだいがく)』に代表される女性観です。そこでは、女性は夫や家に従い、従順であることが美徳とされていました。
福沢はこれを、封建的な男尊女卑の産物として退けます。生まれたときから男女で扱いを変えるのは、人間の平等に反する。彼の平等論を、家庭の中まで徹底したわけです。
「男も人なり女も人なり」
福沢の出発点は、シンプルです。
そもそも世に生まれたる者は、男も人なり女も人なり。
まず人がいて、そのうえで男であり女である。だから、学ぶ機会も、人としての尊厳も、同じでなければならない。福沢は、女性にも教育の門を開くことを強く求めました。
慶應義塾を含め、当時の私塾は男子が中心でしたが、福沢は女性の教育の必要性を繰り返し説いています。女性が無学のままなら、家庭も子育ても、そして社会も良くならないからです。
「父厳母慈」を否定する
福沢の家庭論は、さらに踏み込みます。当時は、父は厳しく、母は慈しむ、という「父厳母慈」が望ましいとされていました。
福沢はこれを、男尊女卑から生まれた悪い習慣だと断じます。家庭の中でも、父母の権力は同一であるべきだと論じました。
- 父が一家の独裁者で、子も妻も従うだけではいけない
- 父母が対等に、ともに子を養育する
- 妻が夫の機嫌をうかがうだけの家は、文明の家ではない
妻を夫の従属物としない、対等な夫婦関係。これは、当時としてはかなり先を行く主張でした。
先進性と、限界
ただし、福沢の女性論を手放しで理想化するのは正確ではありません。
- 女性の役割として、家庭や育児を重く見る部分は残る
- 当時の常識にとどまり、現代の平等観とは重ならない記述もある
- あくまで「文明国にふさわしい家庭」という枠組みの中での主張だった
それでも、「女性も人である」「教育の機会を与えるべきだ」と公言したことの意味は大きい。時代の言葉で書かれているからこそ、私たちは当時の基準からどこまで進んだかを測ることができます。
現代に引きつけると
- 家庭の中の権力の偏りを、あらためて見直す
- 育児や家事を、一方の責任にしない
- 「人として対等」を出発点に、役割を考える
