「何のために学ぶのか、わからない」。この問いに、福沢諭吉はわりとあっさり答えます。学ぶのは、自分が独立するためだ、と。
そして、もっと大切なことを付け加えます。目的は「学者になること」ではない。ふつうの人が、自分でものを考え、自分で立って生きるために学ぶのだ、と。
学問は、独立の手段
福沢の時代、学問は一部の人のものでした。身分の高い家の者が、教養として、あるいは役人になるために学ぶ。福沢はその枠を外します。
『学問のすゝめ』初編で、彼はこう述べます。賢い人と愚かな人、貧しい人と豊かな人の違いは、学ぶか学ばないかで生まれる。だから、身分に関係なく、すべての人が学ぶべきだ、と。
学問は飾りでも、話の種でもない。自分と家族の生活を支え、自分の頭で判断するための力です。だから福沢は、学問を「独立の手段」と位置づけました。
学問の本趣意は読書ではない
学ぶ、と聞くと読書を思い浮かべます。しかし福沢は、読むこと自体を目的にしません。
学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。
本を読んで知識を増やすより、頭を働かせて考え、実際に使うことが学問の本体だ、というわけです。ここでいう「精神の働き」とは、ものを考え、判断する力のこと。
だから、どんなに読んでも使えないなら無学と同じ。この徹底した実践志向は、実学の記事でも扱っています。
学ぶと、何が変わるか
福沢の考えを、現代的に言い直すと、こうなります。
- 選択できるようになる:仕事も、生き方も、情報に流されず自分で選べる
- だまされにくくなる:権威や世論の言葉を、いったん自分の頭で疑える
- 人と対等でいられる:誰かに頼りきらず、へつらわずに付き合える
学ぶことは、地位や年収のためだけではありません。生き方の主導権を、自分で持つための営みです。
「役に立たない」と思ったとき
すべての学びが、すぐ役に立つわけではありません。福沢の実学観からすれば、使えない知識は実学ではないとしても、それは学びそのものが無駄という意味ではありません。
- 使える形になるまで、時間がかかることがある
- 直接は役立たなくても、判断の土台になる教養がある
- 役立てるのは自分。学びを活かす場は、あとから見つかる
大事なのは、学んだことを一度は使ってみようとすること。福沢が言う「活用」は、その一歩から始まります。
