「一言で終身行う」言葉
子貢が、孔子に問いました。一言で、生涯行い続けられる言葉はありますか、と。
子貢、問うて曰く、一言にして以て終身之を行ふべき者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。(衛霊公第十五・24章)
「それなら恕だ。自分がしてほしくないことは、人にしてはいけない」。孔子はそう答えました。
「恕」は、思いやりと訳されます。上から相手をあわれむのではなく、自分の感覚を手がかりに、相手の身になって考える。それが恕です。
孔子の道は忠恕
孔子の道を、弟子たちはどうまとめたか。曾子はこう言いました。
夫子の道は、唯だ忠恕のみ。(里仁第四・15章)
忠と恕。忠は、自分の心に誠実を尽くすこと。恕は、人を思いやること。この二つが、孔子の教えの全体だと曾子は見たのです。
忠恕は、目新しい教えではありません。むしろ、だれでも知っている、ごく普通のことを、どこまでも大切にする。そこに孔子の思想の深さがあります。
仁への入口
恕は、仁の中心にある考え方です。仲弓が仁について尋ねたときも、孔子は同じことを言いました。
己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。(顔淵第十二・2章)
仁は遠い理想のように見えますが、その入口は、だれにもある一つの問いにあります。「これをされたら、自分は嫌か」。まずそこから始めればよいのです。
反対の問いかけ
注意したいのは、孔子が「自分がしてほしいことを、人にせよ」と言ったわけではない点です。人によって、してほしいことは違います。
孔子が示したのは、しないことの基準です。「嫌なことはしない」。控えめに見えますが、これは強い規範です。善意の押しつけを、あらかじめ止めてくれるからです。
誤解しやすい点
- 優柔不断という誤解:恕は、相手の立場で考えるという、明確な判断の基準です
- 自分の好みの押しつけという誤解:してほしいことではなく、しないことを基準にします
- 他人に振り回されることという誤解:忠で自分を保ち、恕で相手へ開く。両立します
日常でどう使うか
言葉を発する前に、「自分がこれを言われたらどうか」と一度立ち止まる。これだけで、多くの行き違いは減ります。
恕は、大きな善行ではありません。日々の小さな選択の中で働く、静かな原理です。