吉田松陰と福沢諭吉は、ほぼ同世代です。松陰が29歳で処刑された1859年、福沢は24歳。福沢はその後、明治の日本で教育と著述に長く携わりました。二人を並べると、幕末から明治へ向かう日本の、二つの道が見えてきます。
対照的な二人
| 吉田松陰 | 福沢諭吉 | |
|---|---|---|
| 生没 | 1830–1859 | 1835–1901 |
| 立場 | 長州藩士・松下村塾 | 中津藩士・慶應義塾 |
| 外国観 | 攘夷(のち海外への関心) | 開国・文明摂取 |
| 方法 | 行動・門下生への教育 | 教育・著述・言論 |
| 最期 | 安政の大獄で刑死 | 明治を生き、病死 |
松陰は行動の人でした。門下生を育て、自らも動き、そして29歳で命を絶たれました。福沢は著述の人でした。直接政治に携わらず、在野から教育と世論で明治を導きました。
学問観の違い
- 松陰:学問は志と実践のため。孟子や陽明学を通じ、内面の志を立てることを重んじた。
- 福沢:学問は実学と独立の手段。役に立つ学問で身を立て、国を支えることを重んじた。
松陰が「何を志すか」を問うたとすれば、福沢は「それで身をどう立て、社会をどう動かすか」を問うた。内面と社会、実践と実学。補い合う関係です。
対外観の違い
松陰は攘夷を唱え、外国船への密航を試みて失敗しました。学びたいという衝動と、外敵への警戒が、一人のなかに同居していました。
福沢は、攘夷ではなく開国を選びました。西洋文明を学び、それによって国を強くする。攘夷の志士による暴力にも、福沢は批判的でした。
福沢は、西洋文明を摂取することで国を独立させる道を選んだ。
ただし、二人とも「日本の独立」を願った点では同じです。その手段が、武力と行動か、学問と教育かで分かれたのです。
通じ合う点
- 身分にとらわれない学び:松陰は松下村塾に身分を問わず受け入れ、福沢は「天は人の上に人を造らず」と書いた
- 志の大切さ:松陰の立志と、福沢の独立の気力は、根でつながる
- 教育への信念:二人とも、人を育てることが国を作ると信じた
- 独立の重さ:松陰は武士としての独立を、福沢は国民の独立を説いた
二人が作った明治
松陰が29歳で倒れた後、彼の門下生たち(高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋ら)が政治を動かし、福沢が教育と世論を支える。明治という時代は、行動の人と著述の人が、それぞれの役割で形づくったのです。
