尊王攘夷とは
尊王攘夷とは、**天皇を尊び(尊王)、外から来る敵(夷狄)を払う(攘夷)**という、幕末の政治思想です。江戸時代後期、水戸学などを通じて培われ、外国船の来航が増えるなかで広がりました。
有名な言葉ですが、これは松陰が一人で唱えたものではありません。幕末の幅広い思想潮流であり、松陰はその代表的な論者の一人です。
松陰はなぜ攘夷を唱えたのか
松陰の出発点は、兵学者としての危機感でした。山鹿流の兵学師範の家に育ち、国防の問題を自分の仕事として受け止めていました。
アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知った松陰は、日本も同じ危機にさらされると感じます。攘夷は、外国人を排斥したいという感情ではなく、日本の独立をどう守るかという問いから生まれました。22歳の東北遊学の日記には、次のように記しています。
身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん
日本の独自性を知ったうえで、外に対して自立すること。27歳で著した『松下村塾記』にも、こうあります。
国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり
海外を学ぼうとした攘夷論者
松陰の攘夷が特異だったのは、外国をよく知ろうとした点です。
- アヘン戦争後の世界各国の情報を集め、海外事情の書物を読み込んだ
- ペリー来航時には黒船を視察し、下田で海外渡航を試みた
- 師の佐久間象山から、まず西洋の技術や知識を学ぶ必要を説かれた
松陰は、西洋を批判するにしても、まず実情を知ってからにすべきだと考えていました。何も知らずに「異国は汚らわしい」と叫ぶだけでは国は守れない、という現実感覚です。
即時攘夷から未来攘夷へ
松陰の攘夷論は、時期によって変わります。
- はじめ:ペリーを討ち、条約を破棄しようとする「即時攘夷」を志した
- 転換後:まず西洋に学び、国力を養ってから外国に対抗する「未来攘夷」へ
この転換には、佐久間象山の助言と、日米和親条約の締結という現実が影響しました。松陰は『幽囚録』で、密航の顛末とともに、この方針転換を記しています。
感情的に外国人を拒むのではなく、いつか対等に渡り合うための時間をどう使うか。松陰の攘夷は、長期的な構想を持つ国防論でした。
「攘夷」の評価をめぐって
松陰の思想には、周辺国への進出を構想する対外観(いわゆる「雄略論」)も含まれ、後の対外拡張と結びつけて批判的に評価されることがあります。
一方で、彼の攘夷の中心はあくまで日本の独立を守ることにあり、海外認識にもとづく現実的な政策論だった、という見方もあります。この点は歴史的な解釈が分かれるところです。ここでは賛否を断定せず、論点として整理しておきます。
現代に読み替えるなら
松陰の攘夷は、閉じるための思想ではなく、自立するための思想でした。
- 外のことをよく知る。知らずに批判しない
- 感情で排除するのではなく、何を守りたいのかを考える
- 学べる相手からは学び、力をつけてから向き合う
「外からの脅威」への向き合い方を考えるとき、松陰の現実感覚は一つの手がかりになります。
