伊藤博文とは
伊藤博文(1841–1909)は、周防国(現在の山口県光市)の農民の家に生まれました。のちに長州藩に仕え、明治政府で初代内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法の制定に関わりました。日本近代の骨格を形づくった政治家の一人です。
その伊藤が、若い頃に松下村塾で学んだ一人だったことは、あまり知られていません。
松下村塾に学ぶまで
伊藤は身分の低い家の出でした。萩に出て、来原良蔵のもとで働く中で松下村塾と縁ができたとされます。入塾当時は17歳前後、松陰が処刑される2年ほど前のことでした。
ただし、注意が必要です。伊藤は身分が低く、塾の外から立ち聞きしていたという話も残っています。松陰からどれほど直接の指導を受けたかは、はっきりしていません。松下村塾には名簿がなく、塾生の実態には不明な点が多いのです。
この点は「松下村塾の実像(神話と史実)」で詳しく検証しています。
「村塾から総理大臣が二人」の意味
松下村塾からは、伊藤博文と山縣有朋という二人の内閣総理大臣が出ました。「小さな塾から総理大臣が2人」という語りは、この事実にもとづきます。
ただし、この数え方は後年の評価です。伊藤も山縣も、松陰が生きた時代に直接その指導を受けたかは確かでなく、二人が成し遂げたのは、松陰の死後、それぞれの時代における働きによるものでした。
それでも、松下村塾という場が、身分の低い若者に学ぶ機会と志を与えたことは確かです。伊藤も、その恩恵を受けた一人でした。
松陰の死後
松陰が処刑されたとき、伊藤は18歳ほどでした。その後、伊藤は長州の尊王攘夷運動に加わり、1863年には密航でイギリスへ渡ります。西洋の実力を目の当たりにした伊藤は、攘夷から開国へと舵を切り、明治の国家建設へと進んでいきます。
松陰が「まず外国を知れ」と説いたこと、身分を問わず人を育てたことを思えば、伊藤の歩みは、村塾の精神の一つの帰結とも言えます。ただし、それを「松陰の教えが伊藤を総理大臣にした」と単純に語るのは、行き過ぎです。
最期
伊藤は、初代韓国統監を務めるなど、日韓関係の要として活動しました。1909年、満州のハルビンで、安重根に銃撃され暗殺されます。
