中国の春秋時代。まだ一人の王のもとにまとまらず、諸侯が争っていた時代です。孔子は、その真ん中で、魯(ろ)という小さな国の陬邑(すうゆう)に生まれました。今の山東省曲阜(きょくふ)にあたる土地です。
生年は、紀元前551年とされます。ただし551年・552年・550年と諸説があり、確かなことは分かっていません。
父の叔梁紇(しゅくりょうこつ)は魯の勇士でしたが、孔子が幼い頃に亡くなります。母の顔徴在(がんちょうざい)に育てられ、暮らしは貧しかったと伝えられます。
生い立ち ― 学びに目覚める
若いころの孔子は、倉庫の管理や牧場の世話といった下級の職を務めました。身分も財産もない。けれど彼は、学ぶことをやめませんでした。
『論語』に、自らの歩みを振り返る有名な一節があります。
吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず。(為政第二・4章)
十五歳で学に志し、三十歳で独り立ちし、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天命を知り、六十歳で人の言葉を素直に聞けるようになり、七十歳で心のままに振る舞っても道を外れなくなった、という意味です。
この一節は、孔子が最初から完成した聖人だったのではなく、年齢を重ねながら少しずつ学び、育っていった人間だったことを示しています。
而立 ― 教育者として立つ
三十歳のころ、孔子は弟子を教え始めたとされます。
当時の学問は、一部の貴族のものでした。孔子は、身分や財産ではなく、学ぼうとする意思のある者なら誰でも受け入れました。これを「有教無類(ゆうきょうむるい)」といいます。
弟子は各地から集まり、のちに三千人、そのうち六つの技芸に通じた者が七十二人いたと伝えられます。弟子たちは、孔子の教えを学ぶだけでなく、その人物に惹かれて集まったのでしょう。
仕官 ― 魯での政治
五十歳を過ぎたころ、孔子は魯の国に仕えるようになります。中都(ちゅうと)の宰、司空(しくう)、大司寇(だいしこう)と、次第に重い役を任され、国は一時よく治まったと伝わります。
しかし、まもなく政治はうまくいかなくなります。隣国・斉が贈った女楽に君主が溺れ、孔子の意見は聞かれなくなった。彼は魯を去る決意をします。
周遊列国 ― 十四年の旅
五十五歳のころから、孔子は弟子たちとともに諸国を巡り始めます。衛、陳、蔡、宋、楚など、十数年におよぶ旅でした。
道は楽ではありませんでした。あるときは陳と蔡の間で食糧が尽き、一行は立ち往生します。それでも孔子は、弟子と歌を交わし、問いに答え続けました。
各国の君主は孔子の教えに関心を示しても、実際に政治を任せることはありませんでした。理想は、なかなか現実になりませんでした。
晩年 ― 教育と古典の整理
六十八歳のころ、孔子は魯に帰ります。そして、果たせなかった政治の夢を弟子たちに託すように、教育と古典の整理に残りの日々を注ぎました。
『詩経』『書経』『礼』『楽』『易』、そして『春秋』。伝えられてきた学問を整え、弟子に教える。直接書いた著作は残していませんが、この営みが後の儒学の土台になります。
没後 ― 『論語』と儒学
紀元前479年、孔子は七十三歳で亡くなります。
弟子たちは、墓のそばに小屋を建てて三年間喪に服しました。なかでも子貢(しこう)は六年間離れなかったと伝わります。師を失った悲しみの深さが、うかがえます。
生前は用いられなかった孔子の教えは、没後、弟子たちが書きとめた言行録『論語』によって受け継がれます。やがて漢の時代に儒学は国の学問となり、孔子は「至聖先師(しせいせんし)」「万世師表(ばんせいしひょう)」と仰がれるようになりました。
日本へは、古くに伝わったとされます。『日本書紀』などによれば、応神天皇の時代、百済(くだら)の王仁(わに)が『論語』を携えて来たという伝承があります。江戸時代には儒学が武士の教養となり、藩校や寺子屋で読まれました。
生涯から学べること
孔子の生涯には、華々しい成功譚がありません。高い地位も、大きな富も、思いどおりの政治も得られませんでした。
あるのは、学び続けたこと、人を思いやろうとしたこと、そして弟子たちに希望を託したことです。
理想が実らなくても、生き方は人に残る。孔子の一生は、そのことを静かに示しています。