皇帝が「世界市民」として生きた理由
マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国の皇帝でした。当時、帝国の版図は地中海をぐるりと囲み、無数の民族と文化を含んでいました。
その頂点に立ちながら、彼は自分を「ローマ人」や「皇帝」としてだけでなく、世界市民(コスモポリスの市民)として捉えていました。
世界市民とは、特定の国や共同体の一員である以前に、まず人間として、大きな世界の一員であるという考え方です。ストア派は、この考えを早くから説いていました。
アウレリウスにとって、皇帝であることは、この世界市民としての務めを果たす一つの持ち場にすぎませんでした。
地位が高かろうと低かろうと、すべての人間は同じ理性を分け合う同胞である——それが彼の出発点でした。
人間は社会的動物である
ストア派は、人間を「社会的動物」と考えます。人間は、一人では生きられないようにできている。
食べ物を得るにも、学ぶにも、子どもを育てるにも、誰かの助けが要ります。これは、弱さの話ではなく、人間という存在の成り立ちの話です。
アリストテレス以来、人間が社会的動物であるという見方は西洋哲学の伝統でした。ストア派はそれをさらに広げ、国境を越えて、人類全体を一つの共同体として見ました。
それぞれの国が閉じた箱ではなく、すべてが大きな一つの世界につながっている。宇宙を一つのポリス(都市国家)として捉えるのです。
宇宙を意味する「コスモス」と、都市を意味する「ポリス」を合わせて「コスモポリス」と呼びます。
だからアウレリウスは、人間の本性にかなった行いとは、共同体に貢献する行いだと考えました。自然に従うことと、他者のために働くことは、彼のなかで同じ一つのことでした。
この見方は、私たちの孤独感にも効きます。「自分は誰ともつながっていない」と感じるとき、その感覚は、人間の本性からすると不自然な状態なのかもしれません。
逆に、どんなに小さな仕事も、誰かの役に立っているという実感があれば、人は自分の生に意味を見いだせます。
アウレリウスは、皇帝としての大きな務めだけでなく、日常のささやかな協力も、同じ「自然にかなう行い」として重んじました。
手足のように、歯のように
『自省録』の冒頭近く、アウレリウスは、人と人がどうつながっているかを、体の部位のたとえで表します。
私たちは、足や手、まぶた、上下の歯の列のように、協力するために生まれた。互いに反目することは、自然に反する。 — 『自省録』2.1(大意)
足は手と争わず、まぶたは目を妨げません。それぞれが別の働きをしながら、一つの体のために動いている。人間も同じだ、というのです。
誰かが誰かを蹴落とすことは、体の一部が別の一部を傷つけるようなもので、自然に反しています。
彼はまた、こうも書きます。
理性的な存在は、一つの協力のために形作られている。私は、理性的な存在の体系の一員なのだ。 — 『自省録』7.13(大意)
ここで重要なのは、「私は世界の一部である」と「私は世界から切り離された一個である」の違いです。指を体から切り離せば、それは指でなくなります。
同じように、自分だけの利益を追い、共同体から切り離されてしまえば、人間としての本来の姿が損なわれる。アウレリウスはそう考えました。
他者を同胞として見る
この考え方を日々実行するのは、簡単ではありません。アウレリウス自身、朝起きるとこう自分に言い聞かせています。
今日は、横柄な人、恩知らずな人、わがままな人に出会うだろう。それでも、彼らもまた同じ理性を分け合う同胞であり、悪を行うのは善悪を本当には知らないからだ、と。
この姿勢は、対人関係の悩みに効きます。誰かに腹が立ったとき、その人を「敵」や「邪魔者」と見るのをやめて、「同じ人間の一人」として見直す。すると、怒りの勢いが少し変わります。
相手の行動を肯定するのではなく、相手を自分の一部のような存在として捉え直す。これは、相手のためである以上に、自分の心を荒らさないための知恵です。
もっとはっきりした形で、アウレリウスはこうも言います。誰かの悪口を聞いたら、「それは自分の考えとは違う」と落ち着いて言えばよい。相手に会ったら、善を勧めればよい。
それで十分だ、と。正義は、相手を打ち負かすことではなく、同胞として共に善く生きることにある、というわけです。
怒りを手放すことが、自然にかなう
アウレリウスにとって、怒りを手放すことは、道徳的なお説教ではありませんでした。むしろ、自然にかなうかどうか、という問題でした。
人に対して怒り、反目することは、手足が争うように、体の調和を壊します。つまり、怒ることは、相手を傷つけるだけでなく、自分の本性も損なうのです。
だから彼は、怒りが湧いたときに、相手を「同胞」として思い出すことを勧めます。私たちは、協力するために生まれた。
いま怒りたくなる相手も、その協力の網の目のなかにいる。そう思い起こすだけで、怒りはそのまま暴発せず、いったん落ち着く場所を確保できます。
これは、何も感じなくなることではありません。不正に対しては意見を言い、必要なら距離を取る。
ただ、相手を人間として見失わないこと。それが、共同体感覚を保ったまま怒りを扱う、という道です。
アドラーの「共同体感覚」との共鳴
この考えは、ずっと時代を下った心理学者、アルフレッド・アドラーの「共同体感覚(社会への関心)」と、驚くほど響き合います。アドラーは、人の心の健康や幸福が、自分が共同体の一員であるという感覚に支えられると考えました。
自分のことだけを考えるのではなく、他者や社会に関心を向け、貢献することに、人生の意味があると説きました。
アウレリウスが「手足のように協力するために生まれた」と言い、アドラーが「共同体感覚を持つことが大切だ」と言う。時代も、扱う学問も違いますが、人間はつながるために生きているという洞察は共通しています。
両者を並べて読むと、この考えが一時的な流行ではなく、人間の本質に関わるものだと分かります。アドラーとの比較は、別の記事で詳しく扱っています。
見知らぬ誰かと、どうつながるか
世界市民というと、遠い国の人々まで愛せと言われているようで、身構えてしまうかもしれません。けれど、いきなり人類全体を愛する必要はありません。アウレリウスの実践は、もっと身近なところから始まります。
まず、いま自分のそばにいる人を、同胞として見ること。家族、同僚、店の店員、電車で隣に座った人。その一人ひとりが、自分と同じように考え、迷い、生きている。
その想像を働かせるだけで、世界は少しだけ広く、温かくなります。次に、自分の持ち場で、できる協力を行うこと。
大きな奉仕でなくてもかまいません。目の前の人の役に立つ一つの行いが、世界市民としての第一歩です。
逆に言えば、遠い国への関心を語りながら、隣人に冷たく当たるなら、その姿は世界市民とは言えません。アウレリウスの思想は、抽象的な理想ではなく、足元の人間関係の質として現れます。
広い視野と、目の前の一歩。その両方を持ってこそ、本当の意味で世界の同胞とつながれるのです。
